【東洋医学を考察する】#00003
ヒトは自然の一部であるという意識を日常に用いる

こんにちは、東洋委員長です。

昨日の考察で、かなり突飛な事を言って非常に反省しているのですが、それはさておき

今日は、「ヒトは自然の一部である」という意識を日常に用いると何があるかって話をします。

人工物(アート)と自然(ネイチャー)

本題の前に、西洋と東洋の人に対する違いを話します。

西洋(欧米?)では、人工物と天然物をこのように分けるそうですが

東洋思想では、ヒトは自然の一部であるという考えに基づき様々な理論展開や価値観系に繋がっています。

その中でも、東洋医学では「陰陽五行論」「蔵象学」「天地人」に代表されるように、ヒトは自然の一部である。

なので、自然の仕組みは人体にも当てはまり、それに従って治療を行う。それが東洋医学であるそうです。

天地人

陽である天と、陰気が宿る地の間に位置するのが「人」であり、それを天地人と古代中国の人は表現しました。

経絡の流注と、天地人

陽気は天から降りてきて、陰気は地から上に昇るため、ヒトがバンザイをしたとき

身体の後ろを陽気が降り、前を陰気が昇る。その流れる方向に従って、経絡があり

陽経は身体の後ろを、陰経は身体の前を流れるわけです。

そして、陰陽もまた三陰三陽に別れ

陽は、陽明・太陽・少陽に

陰は、太陰・少陰・厥陰に別れ

それらが、各臓腑(五臓六腑=蔵象学)に繋がるという思想な訳です。

そして、どの経絡の気が増えているか減っているか(虚実)を判断し、補法or瀉法を行い治療をします。

体内の陰陽を整える、これな東洋医学の根本であり、それに用いるのが先ほど話した概念たちなわけです。

ヒトは自然の一部である認識を、日常に取り入れる

自然災害がという物がありますが

「地震雷火事親父」と表現されるように

ヒト(の怒り)もまた、自然の一部なわけです。

なぜなら、ヒトは自然の一部であるからですね

そして、それを止めることは誰にも出来ず

むしろ、他人を変えようなどは、自然を変えようとすることに等しく

治水の様に上手に扱う事ができないと、人々により危害を与える存在になりうるわけです。(ヒトを守るために、ヒトを退けるダムのようですね)

そしてそのヒト=自然をどうにかしようとすると行為は、言葉を選ばなければ、自然に対する暴虐とまで言って差し支えない場合もあるでしょう。

なぜ、私たちは「他人は変えられる」と思い込んでしまうのでしょうか。

また、いわゆる「ストレス」は他人から受けた物であり、それは人工物と考えてしまうから「ストレス」として受け取ってしまい、気が病み心身に不調をきたすのでしょうか。

それはやはり、ヒトは自然の一部のであるという認識の欠如による物では無いでしょうか?(言い過ぎな気もしますが)

人は自然の一部だから、誰かに嫌なことされたら災害にあったんだしゃーないと思う

そう捉えるだけで、幾分マシになることもあるかも知れないですね。

人の行いは止めることはできない。それは、人もまた自然の一部だからで

その行いに対して、あれこれ悩む暇があれば「自然だから」と捉える(ある種諦める)ことで何かが変わるかもしれません。

また、諦めるとは「明らかにする」が語源とされており、決して悪いことではないですね。

人智を超えた物が神の領域であり、私たち人間は自然の一部であるから

なんか感じ悪い人がいたら、歩く災害だと思って接すると何かが変わるかも知れません。

だいぶ話がそれましたが、「人は自然の一部である」という認識が欠如しているから、アレコレ悩み不都合があると感じてしまうのでは無いでしょうか?

私も常日頃気をつけていますが、ついつい「何故あの人は自分が思うように動かないんだろう?」とか思ってしまいます。

いやぁ、他人は他人なんですよね。そして、自然を相手にしていると思えば、自分がすべきことは

他人をどうこう考えることではなく、自分自身に目を向けて、自己研鑽に努めることなんだなと思います。

そして、そのような認識を持って動く人は果たして「自然」と呼べるのだろうか。

それこそ、西洋の「アート(人工物)」なのでは無いかという、ある種の矛盾なのかも知れません。

人生は面白いですね、以上です。

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